今日の時代の中で絵画の持つ魅力は、個性的な方法や様式に独自なものが必要。 何に心が動かされ何のために描くのか。 物事にふれ自分の内部に湧き起こるものを大切に、体の中から動かされたものを、 何のために描くのか? そのことを抜きにして作品は生まれない。 心と体の中から出てくるイメージをつかんでノ作品を描く。 - 和瀧利清 - |
和瀧利清展に寄せて この度小磯良平大賞展入賞作品を中心とした和瀧利清展が開催されます。 ご自身、生前から個展は考えられていたようですが残念ながらそれが果たせず、今回ご遺族の手により展示発表されることになりましたことを、故人は大変喜んでいることと思います。私どもも大変嬉しく、その労を犒いたいと思います。 ”溝引き”の技法を駆使して描かれた幾何学的で且つ細密な画面構成の作品は、写実的な世界を超越したむしろ抽象画で、不思議な静寂と透明感を見る人に与えてくれます。これからも、もっと沢山の作品を見せていただきたかったのですが、残念ながらそれが叶わなくなってしまいました。しかしすばらしい作品を残してくれました。また昭和60年2月に発足しました東虹会(松本県ケ丘高校OB創作活動の会)の発起人でもあり、初代会長として20数年に渡り会の発展に尽力されました。毎年谷中で行われる”葉桜の宴”では、酒を酌み交わしながら、松本で過ごした青春時代を熱く語られていた様子が、今でも鮮明に思い出されます。 今回の展覧会では、小磯良平大賞展に入賞された作品をはじめ高校時代の作品など一同に展示され、拝見出来ますことを今から楽しみにしています。 東虹会会長 宮澤利昭 - |
1931年(昭和6年)11月 東京生まれ。小学校を終える頃に絵の世界を目指すようになる。 東京時代は、久我山中学(現・国学院久我山)に進み、美術部で恩師・三坂耿一郎先生(後に日本芸術院会員)と出会い指導を受ける。 その後、後任の美術教師となった高井寛二先生(行動美術協会創立会員)にも師事。その後、太平洋戦争が進む中で東京に居住することが困難な状況になり縁のあった信州の松本に転居、松本県ヶ丘高等学校に進学する。ここでは高嶋仁先生の指導を受け、絵の勉強を続けた。 太平洋戦争の終戦を迎え、東京芸大を受験するために東京に戻るも肺結核にて長期にわたる療養生活を余儀なくされる。進学を断念、図案の世界に身を置くことを考え今で言うグラフィックデザインの仕事に就く。短期間デザイン会社に勤務したのちに独立し、「直線工房」という名で神田にデザイン事務所を立ち上げる。 その後銀座に拠点を移し、日本宣伝美術協会(日宣美)と東京商業美術協会(東商美)の統合で、新たに日本グラフィックデザイナー協会(JAGDA)初代会長・亀倉雄策氏=が設立される際は、誘いを受け創立時に正会員となった。当時の同世代の会員には田中一光氏、福田繁雄氏、永井一正氏など。アメリカン・エキスプレス、コカ・コーラ、ジョンソン&ジョンソンなど有数の外資企業の仕事に携わる。 一方で、松本時代の人的交流も長く続き、東京放送(TBS)の美術部門を統括しドラマ制作でご活躍された宮澤利昭氏や、東京芸大デザイン科教授を務められ、晩年の良き応援者となっていただいた小松敏明氏をはじめ、クリエイティブ分野のプロフェッショナルとして活躍する豊かな人脈に恵まれた。 1995年頃に仕事を引退し、新設された小磯良平大賞展へチャレンジの場を移し数年間の準備を経て、第5回展に「蔵前橋」=自宅から隅田川を俯瞰した作品を出品し初入選。その後も連続入選を果たす。 2008年春、妻幸子が亡くなると、その直後より体調を崩して入院。 2009年5月5日 療養中の病院にて永眠。77歳。 |